コラム一覧

ページタイトル画像

第5回 私が症例報告を書く理由

2008/08/27

 症例報告は、雑誌等では原著論文や総説などとは別にして取り扱われます。これは、症例報告の価値が原著論文より低いからではありません。症例報告には原著論文とは違った意味があるからです。

私の経験

 一遍の症例報告が、複数の研究論文よりももっと多くのことを語ることがあります。実際に私は若い頃にそのような症例を経験しました。
 その症例は、エストロゲン合成酵素欠損症の世界で第一例目となる症例でした。この症例の表現型は、エストロゲン合成酵素の機能や生理的意義について、その後にマウスのノックアウトモデルを作成して行われた複数の原著論文よりもずっと多くの知識をわれわれに与えてくれました。表現が適切でないかもしれませんが、ヒトを対象にin vivoで行われたノックアウト実験に相当する知識を与えてくれたのです。(興味があれば、アロマターゼ欠損症というキーワードでこのホームページ内を検索してみてください)。
 症例報告の意義について、自分の勉強になるからとか、珍しいからとかいろいろな考えがあると思います。なぜ症例報告が大切なのかについて、私の考えをまとめてみました。

症例報告の意義

 症例報告を、症例の発生頻度から分類してみると3つに整理できます。

1. 比較的珍しい症例についての報告

 症例について詳しく検索し、その成果を他者に説明することは自らの知識や理解を深める作業です。このような症例は、臨床の現場でときにはお目にかかる症例ですから、臨床かとしてはしっかり自らの頭にとどめておく必要があります。他人に説明するという作業は、成人教育論からも理にかなった学習方法です。

2. 極めて珍しい症例についての報告

 正確に記載し記録を残すことで、他者の間接経験に資するという意義です。極めて珍しい症例ですから、多くの医師にとっては直接経験することはまずありません。万一にそのような症例に出会ったときに、すみやかに診断が出来るように準備しておくという意味合いもありますが、文献として記録されたものが、後に同様の症例に出会った医師の疾患の解析に資するという点が大切です。極めてまれな疾患ですから、皆で症例経験を共有し複数例の解析を可能にすることで、はじめて疾患特性や病態の解明を進めていくことができるようになるわけです。

3. 比較的珍しい症状や所見が二つないしそれ以上が同一患者に認められたときの報告

 20,000人に一人の割合で認められる症状Aと50,000人に一人の割合で認められる症状Bとが同一患者に見られたとすると、その頻度は20,000×500,000=1000,000,000人に一人、つまり日本全体で一人もいないということになります。したがって大変珍しいので報告すると考えるかもしれませんが、そうではありません。むしろ、その逆です。
 確率的に起こりえない事象が起こった訳ですから、確率計算の前提となった仮説が棄却されると考えるべきです。つまり、発生確率がAとBの積(1000,000,000人に一人)になるのはAとBが独立と過程した場合です。このような発生確率の事象が実際に起こった場合にはAとBは独立ではない(AとBが同時に発生する確率はその積である1000,000,000より小さくなります)と考えるわけです。AとBが独立でない場合には、因果関係(または交絡関係1)があると推定できます。
 仮に同様の症状の組み合わせを持つ症例が複数例観察されたとすると、AとBとには何らかの共通の病態・病因が関係している可能性はますます高くなります。たとえば、大動脈解離・高身長・クモ状指は一見関連がなさそうな症状・所見ですが、同時に認められた場合には、これらの症状に何らかの共通の病因・病態があると推定することになります。同じ症状の揃った患者が複数例みられれば、さらにその可能性が高くなり症候群と呼べるようになります。
 そもそもこのような症状の組み合わせが生じる症例はまれですから、一人の医師が複数例経験することは困難です。したがって、第二の場合(極めて珍しい疾患)に述べたように文献記載を介して症例を集積することにより、症候群の存在が推定できるようになるわけです。

症例報告を書こう

 このように、症例報告にはいくつかの意味があります。大切なことは、どの場合でも口頭発表だけでなく、文書での記載が大切だということです。第一の場合には、文書にして他人に説明することで学習のレベルが高まると同時に、記憶にしっかりと焼き付けることができます。第二・第三の場合には、先にも述べたように一人の医師が複数例を経験することは困難ですから、文書を介して智を集積する必要があります。若い先生がたには、ぜひ論文を書くことをお薦めします。とくに、第二・第三の場合には、文献として記録を残すことが症例を経験した医師としての義務であるともいえます。いつか書こうと思っていると、いつの間にか症例の記憶も薄れてしまいます。一生書かないで終わったら、その症例経験が生かされるチャンスが永遠になくなってしまいます。体を使って教えてくれた患者さんにも申し訳が立ちません。
 私は、若い頃にたくさんの症例報告を書きました。多くは、1の比較的珍しい症例に相当するものでしたが、ときには2や3に相当するものがありました。さて、この文章を最後まで読んでくれたあなたは、症例報告を書く決心をしてくれたでしょうか。

1 AとB とに統計的な相関関係が認められるが直接の因果関係はなく、別の要因Cを介して間接的につながっているような場合。たとえばクラミジア感染者に人工妊娠中絶率が高いときには、両者に直接の因果関係があるのではなく、性的活動性が高いという要因Cを介してつながっている場合に交絡と表現する。