コラム一覧

ページタイトル画像

第2回 産科医療再生への道

2007/05/11

第一章 平成18年の震撼

 平成18年は、産婦人科にとって受難の年でした。2月の福島県立大野病院事件に始まり、8月の神奈川県堀病院の看護師内診問題、奈良県妊婦転送死亡事件と全国各地でつぎつぎと産科医を震撼させる事件が表出しました。
 民事医療訴訟に加え刑事事件での逮捕といったこれまで考えられなかった深刻な状況を目にして、産科医としての誇りとやりがいを支えに激務を乗り切ってきた医師のなかから、意欲をそがれて“だまって立ち去る”ひとがでてしまいました。臨床研修制度の変更直後ということもあって、大学医局にも医師の余裕はなく結局地方の病院や医院のなかにやむを得ず産科を閉鎖するところがあり社会問題となりました。隠岐の島の分娩施設がなくなったという情報は、アメリカでも報道されて反響を呼びました。

第二章 産科医療 負のスパイラル

 医師不足が過酷な労働環境をさらに悪化させ、過剰な労働が医療ミスを誘発して訴訟へとつながる。増加した医療訴訟と過酷な労働環境をきらって産科・小児科を目指す医師が減少し、医師不足に拍車をかける。このように、医師不足・過酷な労働環境・医療訴訟は相互に関連して悪性サイクルを形成し、事態はますます悪化してきました。平成18年度には全国的に分娩数が少し上向きになりましたが、産科医と分娩施設の減少がこのまま進行すると、“お産難民”が激増する事態になりかねません。
 訴訟の増加や刑事訴追が引き起こすであろうもう一つの深刻な問題は、産科医師のモチベーションの低下とその影響です。医療訴訟を恐れるあまり消極的で防護的医療に陥るおそれがあります。経膣分娩が可能だろうと思っているが患者の言葉に抗しきれず帝王切開に踏み切る、胎児は元気だと思うが念のために帝王切開をする。分娩後の出血でHbが低下したものの、ほぼ止血して全身状態も安定しつつあるが、裁判判例にある値を元に輸血に踏み切ってしまう。もう少し陣痛を強めてあげれば経膣分娩が可能だろうと思うが、陣痛促進剤への批判が強いので使用をためらう。このような萎縮した医療は、患者にとっても大きな損失です。同時に、このような医療を行うことは医師としての信念を自から否定することになり、医療への意欲をさらに喪失させてしまいます。新しい生命の誕生に関わりその手助けをするという、やりがいと喜びに満ちあふれているはずの崇高な仕事が、いつのまにか四面楚歌、窮地で孤軍奮闘する過酷な戦いに変貌してしまい、ますますモチベーションを低下させてしまうのです。

第三章 無言の患者が私を教育した

 私が産婦人科医になった25年前には、訴訟はありましたが例外的で、多くは医師側勝訴であったように思います。入局後、研修期間という概念はあまりなく、ほとんどいきなり第一線に立つのが当たり前でした。したがって当初は、知識や経験不足から冷や冷やすることがしばしばありました。そのたびに、大いに反省し勉強して次からはきちんと対応できることを心がけてきました。一方、難しい分娩などにも挑戦して(患者さんには迷惑だったかもしれませんが)、無事分娩に成功したときなどは大いに充実感を味わうことができました。怖い思いもしましたが、ひとりひとりの患者さんに教えられながら、成長してきたと思います。医者中心のパターナリズム医療のそしりをまぬがれない環境でしたが、無言の患者さんから教育を受けていたように思います。いまの若い産科医にとっては、訴訟から身を守ることが習性になっていて、とても窮屈な診療を余儀なくされているように思われてなりません。産科診療の奥義を経験しにくい状況をかわいそうに思います。

第四章 問題の解決へ動き出す

 このように、平成18年は産科医療が抱えてきた問題が表面化し、その影響の深刻さを社会も認知しはじめた年でした。これらの問題の中には、産科医自身が解決しなければならない問題と、社会全体で取り組まなければ解決できない問題とがあることが明らかになってきました。医療側からは、“周産期医療の崩壊を食い止める”ために、社会に向けての活動が始まっています。産科医療体制の現状と問題点を取り上げ、患者や行政の立場の人達も参加した検討会が全国各地で開催されるようになりました。各地の報道機関で産科医療の危機を伝える報道が相次いでなされました。国会や医師会でも産科医療が抱えている問題がさまざまな形で取り上げられました。産科医師が足りないのなら分娩は助産師にまかせればよい、かえって医師の介入のない良いお産ができる式の本質の見えていない報道もありました。弁護士を増やして医療訴訟を増加させることではじめて良質な医師を確保することができるという意見もありました。産科医が減ったから産科に転身してあらたに開業しようとする医師はまずいません。訴訟が増えて医師が減るのは現状をみても明かです。医師供給数の制限や保健医療制度などを考えれば、資本主義経済の考えを医療にあてはめることはできません。このような見当違いとおもわれる意見や報道がありましたが、平成18年の後半からは変わってきたと思います。ややもすると医療側に違反的であった報道から、周産期医療の崩壊の現実をきちんと社会に伝える立場にかわりました。単に医療者を批判するのではなく、良質の周産期医療の供給を安定確保するために社会全体で努力していかなければいけないという報道であったと思います。これらの報道は、産科医療問題が社会的な認知を得る上である程度役立ったと思います。

第五章 負のスパイラルを断ち切る 再生への道、平成19年

 そこで、平成19年は、なんとしてでも解決への第一歩を記す年にしなければなりません。産婦人科を目指す研修医の減少、医療事故リピーターの存在、劣悪な労働環境からくる医療ミスの問題、刑事訴追の問題、看護師助産師不足など、前年までに表出した産科医療の問題点を整理してその解決策を示して実行していかなければなりません。
 これらの問題の解決のために、若い医師が安心して働ける環境を整備することマンパワーの増加がもっとも大切であると私は考えています。医学生の間には、医療や医学としての周産期に魅力を感じているひとはたくさんいます。ある調査によると、学年が上昇するにつれ産婦人科に不安を抱くひとが増えるのだそうです。この人達が初期研修をおえて専門を選ぶ時に、産婦人科を選択することに躊躇することのない状況を作ることができれば、産科医も増えるはずです。マンパワーの増加は、労働環境を改善し、訴訟も減ってさらに医師の増加につながる。悪性サイクルをひとつ断ち切ることで、全く正反対の良性サイクルへと変えることができるのです。

第六章 医療訴訟を減らす その1:無過失補償制度

 訴訟を減らすための対策として、2007年中に無過失補償制度が創設されることがすでに決まりました。産婦人科訴訟の50%は脳性小児麻痺CPに絡むものであり、CPの90%が分娩時の管理とは関連のない、したがって医師に責任のないものであることはすでに明らかにされています。このような本来、社会保障のなかで支援していくべき90%の脳性小児麻痺患者についても医師に補償を求める傾向があったわけで、これは社会制度が不備であることがもんだいなのであり医師に責任を転嫁してきたことは誤りであると思います。医師が無過失である脳性小児麻痺患者について、医師が補償する責任にないのは当然です。したがって、無過失補償制度は社会全体の負担で行われるのが当然です。現在のところ医師が保険料を負担する形で創設されるようですが、保険料に見合う金額を分娩給付金の形で国が間接的に補填することになっています。形式上は、医師負担ですが、実質的には国が負担する制度になっているのは、ある意味で当然といえます。無過失補償制度については、まだ未確定の要素が多いようですが、もうひとつ大切な点があります。それは、将来にわたって安定した良質の産科医療を供給するという目的の主旨にそって運用してもらいたいという点です。産科医師に対する責任追及が医療崩壊を招き、萎縮医療につながって国民的損失を拡大することは明らかなわけです。その中で生まれてくるこの制度は、ある程度の訴訟抑止効果を持たなくてはなりません。そのためには、患者が訴訟を起こす場合には、この無過失補償制度を適用しないというのがよいのではないかと思います。訴訟抑止効果のない無過失補償制度では、周産期医療の担い手を育成するといいう所期の目的を果たすことはできません。ほんとうに医師の過失が重大と信じた場合には、無過失補償による補償金というハードルをこえてでも訴訟を起こすことはできると思います。

第七章 訴訟を減らす その2:患者教育

 訴訟を減らすための対策としてもう一つ大切なことがあります。それは患者教育です。戦後40年で妊産婦死亡率は1/50に劇的に低下しました。平成16年の妊産婦死亡は110万の出生に対して49人となっています。しかしこの10年の妊産婦死亡率をみますと、ほとんど一定となっていて現在の医療レベルでは救命できない部分があることが明らかです。「妊娠おめでとうございます。」と告げた後に「あなたは、0.0044%の確率で分娩時に死にます。」とはなかなか言いにくいのは事実ですが、この点をきちんと患者に伝えることは患者の知る権利を尊重するという観点からも重要なのではないかと思います。妊娠して外来を受診してから避けられない死亡のリスクを伝えるのは、後出しじゃんけんの様なものですから後ろめたい気はします。できれば妊娠前に何らかの形で伝えておくのがよいと考え策を練っています。いずれにしても、分娩が100%安全ではないこと、みなが元気な子供の親になれるという保証はないことを伝えておくことは大切です。もっとも、説明の仕方には十分な配慮が必要であり、単なる防御医療にならないように注意しなければなりません。

第八章 訴訟を減らす その3:信頼回復への決意

 医療事故のリピーター問題やケアレスミスなどで失った患者さんからの信頼を回復するための努力も医療訴訟を減らすために必要です。これらの点については、われわれ産科医自身の自浄努力が足りなかったと思います。ピアレビューの形で同業者を評価し、強制力をもって医師やスタッフの再教育・継続的な教育をしていくことが必要です。場合によっては不適切者を排除するくらいの決意が必要になると思います。自浄努力は、無過失補償とセットで推し進めなければいけない課題です。過失の有無を追求しても患者はかならずしも救済されない、それどころか医療の崩壊を早めて、結果的に患者にとってますます不幸な状況が作られていくことになります。責任の追及ではなく、事故の原因を分析し事故防止策を練り上げて安全な分娩管理システムを構築していくことが大切です。事故を野放しにするのではなく医療の質の改善に役立てることは、無過失補償制度を導入するにあたってわれわれが社会に対して負わねばならない責務です。このプロセスを司法にかわってわれわれ専門家集団が自ら行うことに意義があります。

第九章 女性(母性)医師にも働きやすい環境を

 訴訟対策の次に、大切な対策は労働環境整備です。給与やベネフィットの増額のほか託児所の整備やフレキシブルな労働契約など、出産や育児などに配慮した改善も必要です。若い産科医に占める女性の割合が最近特に高まってきていますので、これらの点への配慮が一層重要になってきています。母性医師の休暇休業にともない、男性医師の負担が多くなるのが現状です。この点も、医師数全体が多くなることで自然に解消していくと思います。子育てを終えたら応分の負担をすることで、相互に助け合うシステムになっていくことが望まれます。
 労働環境の整備には、助産師不足や看護師内診問題など社会制度など行政の理解や協力を得なければならない部分も多くあります。給与面での改善も必要です。従来は、全科横並びの給与を建前とする病院がほとんどでした。しかし、勤務内容や勤務時間など科によって大きくことなるのは事実です。個別化するのは公的病院ではとくに難しいのでしょうが、当直料などを値上げした病院もいくつもあります。時間外労働については分娩ごとに給付をつけることで差別化をはかることは可能です。十分なマンパワーが確保され、適度な労働時間にまで労働環境が改善されるまではこのような給与面でのインセンティブも必要だと思われます。

第十章 おわりに

 平成18年の医療事情を振り返り、問題点とその解決策を考えてみました。個人的には、患者教育への“秘策”をできる限り早期に実行に移したいと考えています。学部学生や研修医への教育も大切で、産科医療のやりがいを強調し将来展望をきちんと伝えることにも心がけています。5年10年のスパンでみれば、必ずや負のスパイラルは断ち切られ、周産期医療の状況はいまとは大きく変わっていると思います。医療者も患者も、社会制度もそして研修医もそれぞれが成熟して、医師の偏在や防御医療もおのずと是正されるはずです。
 やりがいと喜びにみちた崇高なこの仕事が続けられる社会を、後輩達に残したいものです。